エレバン

Armenia / Yerevan /
 都市, capital city of country (en)

エレバン(Երևան、Yerevan)はアルメニア共和国の首都である。エリバン(Erivan)、エレブニ(Erebuni)、エレウン(Ereun)と呼ばれていたこともある。「Erewan」、「Ayrivan」、「Erevan」などの表記も見られる。
人口約106万人(2004年)。機械製造や金属業、ワイン、ブランデー製造、たばこ製造業が盛ん。フラズダン川が市内を流れる。南にアララト山を臨む。現存する世界最古の町のひとつである。

紀元前8世紀ごろにはすでにウラルトゥのエレブニ要塞がアルギシュティ1世によって、北カフカースからの攻撃に備え、この地に築かれていた。紀元前4世紀までにはアケメネス朝のアルメニア・サトラップの主要な町になっていた。ヨーロッパと中央アジア、インドを結ぶ交易路の中継地であったため、658年、アラブによって征服される。その後、アルメニア人のバグラト朝の中枢として栄える。1387年、ティムールによる包囲、略奪に遭う。イルハン朝の中心都市の一つともなる。
以後、オスマン帝国とサファヴィー朝の角逐の場となっていく。1604年にはアッバース1世の命により、多くの市民がペルシアに連れ去られた。1679年には大地震に見舞われた。サファヴィー朝では、エレバン・ハン国に編入される。1827年、第二次イラン・ロシア戦争においてロシア帝国がガージャール朝を撃破し、1828年のトルコマンチャーイ条約でロシア領となった。その後、エラバンには多くのアルメニア人がペルシアから帰還してくる。1854年以降、都市計画がなされ、多くの大学が設立され、ギュムリやトビリシ、アゼルバイジャン方面への鉄道建設がなされた。
ロシア帝国が崩壊すると、1918年、ザカフカジエ(南カフカース)は、ザカフカース民主主義連邦共和国として独立を宣言するもすぐに瓦解、アルメニア民主共和国として独立を宣言しエレバンは首都となった。1920年、ボリシェヴィキの赤軍との間にエレバン争奪戦が展開され、結局、赤軍の手に落ちた。ソビエト社会主義共和国連邦を構成する共和国の一つとして、アルメニア・ソビエト社会主義共和国が誕生し、その首都となる。エレバンはアルメニア人建築家アレクサンダー・タマニアンの都市計画に基づき、近代都市への作り変えられていった。1965年、アルメニア人虐殺50周年を巡るエレバンでの抗議運動は、ソ連における最初の大規模な反ソ運動へと発展した。
1991年9月21日、アルメニア共和国が独立を宣言。エレバンは首都となった。

www.youtube.com/watch?v=_rGU8zbo9hQ

www.youtube.com/watch?v=KDXSyRPNS_s

www.youtube.com/watch?v=ub7Uc3grze4

www.youtube.com/watch?v=yfA-5Hdampw
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